本作は三国志をもとにした**架空歴史**です。 建興七年、第一次北伐に敗れて一年後、蜀漢の後主・劉禅が成都にて急逝した。享年、わずか二十四。 史書には、過労と心労の果てに病没したと記される。 だが、誰も知らなかった。その死の裏に、十余年にわたる陰謀が潜んでいたことを。 白帝城の託孤の直後より、司馬懿は密かに蜀中へ一本の隠密の糸を張り巡らせていた。軍機を探るでもなく、徒党を組むでもない。ただひとつ──漢最後の旗印を屠る機会を待っていた。 なぜなら司馬懿にはわかっていた。蜀漢を真に支えている柱は、益州の天険でもなければ、漢中に配された重兵でもなく、丞相・諸葛孔明が死を賭して守ろうとする「漢の正統」という四字にほかならない、と。 そこで呉の朝貢に乗じ、魏の密偵は奇毒「離魂引」を御酒に混入した。この毒は痕跡を残さず、発症すれば長年の持病のように見える。劉禅は口にして数か月後、深宮にて静かに息絶えた。 臨終の床で、劉禅は枕元の諸葛孔明にただひとこと言い残した。 「相父……朕は、そなたを、あまりにも疲れさせてしまったのではないか……」 建興八年。成都。 先帝廟の前、大雪が階を覆う。 百官が新君のために哭礼を捧げるなか、霊位の傍らで、孔明はただ独り雪中に立ち、ひと言も発せず。 夜、彼は独りで偏殿へと入った。 殿内には劉備の画像が掛かり、灯火が揺らめいて、昔日の眼差しのよう。 孔明は長く跪座した後、静かに口を開く。 「臣は二十載、忠を尽くした」 「礼を守り、法を守り、仁義を守り、漢臣の本分を守った」 「その果てに、先帝は荆州を失い白帝に崩じ、陛下は陰謀に斃れ深宮に絶えた」 「臣は名節を守った。されど──お二人を守れなかった」 深く叩頭し、額を地に着ける。 そして顔を上げた時、その眼差しはもう変わっていた。 それは異様なまでの清明―― 氷の下に燃える火のような。 「であるならば――」 「臣は、もう守らぬ」 立ち上がり案前に歩み寄ると、筆を執り、四つの字を書きつける。 代漢行天(漢に代わりて天を行わん) 燭火が突然はぜた。 映し出されたのは、あの常は温雅で清正だった顔に初めて宿った、帝王のごとき冴え冷えた貌。 この夜を境に、蜀の朝廷は気づき始める。 ――丞相が変わった、と。